東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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百姓として入谷に生きる

百姓するって気持ち、その気持ちだけは抜けねかったのよ

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  • 話し手: 西城新市さん
  • 聞き手: 代田七瀬
  • 聞いた日: 2012年7月4日
  • 100/101
ページ:2

幼少期―お袋は俺のこと離さねかったな

 子どもの頃は、あんまり勉強は嫌いなもので、そして姉弟がたった二人きりなもんだから、お袋は俺のこと、なんていうのかな、離さねぇっていうのかな。どこに行ってもね、「どこさ行ってた!」って騒いで。だから、お袋俺のこと抱いて寝てて、夜中にぎゅっとすがって、俺苦しくて何回も逃げたことあるなぁ。ああ、そうか、これは、親父がいなくてさみしい時ぎっちり抱いたんだなってな、逆にそんな思い、今考えてみっとね。3年前に98歳で亡くなったんだけんどもな。正直、褒められたことはねぇけっども、しょっちゅうのさばってたもんだから。ははは。

 

小学校時代―九九を毎日書けって言われてね

 そんなもんだからねぇ、いたずらばりしてたのね。学校に行っても勉強なぞする気になんねぇのよ。友達いずって、いたずらしてね。先生にしょっちゅう怒られてね。喧嘩されそうな時は、逃げてしまうのよ。そのために足がとても速くなってね。学校時代には、「うさぎ」っていうあだ名つけられたんだ。廊下さ立たせられたって、じっとしてねぇのね。いずれとにかく、俺は百姓するんだ!っていう気持ちで、そういう形で育てられたもんだから。だから、百姓するって気持ちだけは抜けなくて。

 実は、小学校4年生の時、掛け算の九九がわかんねぇかったのよ。その時、担任の先生が、障子紙の様な紙のノート持ってきて、「おめぇな、九九を1×1が1から9×9が81まで、毎日こいつへ書け」って。これがおめぇの勉強だってことで。で、そいつを夢中になって書いて。最初のうちはね、1×1=1から9×9=81まで書くのに、とてもじゃないけど1日か2日あったって書けねぇのね。帰りてぇもんだから、早く書くのさ、夢中になって。そして、自分が書いたやつ読むようになってから、九九っていうのを間違わなくなって。そして、2冊目を全部終わった頃には、なんと算数がおもしろくなってきたのね。他のものがまったく興味はねぇけんども、算数だけは全くおもしろくなってきてね。

 うちで仕事をするようになってからも、九九をきちっと教えられて、算数が好きになったことが、あれ、こんな時に役に立つのかなっていう。仕事しはじまってから、気がついたのね。農業するったって、百姓するったって、やっぱりいろんな数字的な部分がしょっちゅう出てくんのね。肥料をこのくらい使うとか、そういうの全部数字計算が出てくんのよ。だから覚えてたものを利用しねぇ方はねぇのね。

 

高校受験―受かってしまったの

 そんなこんなで、数学が得意になってきたもんだから、なんと5年生の頃には、10番くらいになって、算数だけは。そういうのを担任の畑中先生が見てたんだと思うのよ。中学卒業する12月くらいに畑中先生が、「新市なぁ、もしできたら、高校さ入ったらどうだ」と。私の年代の時は、高校入る人は特別な人だったのね。だから、いや俺百姓すんだからいいよって。そして返事したら、なんとじんつぁんが、「おめぇさ、入るっつんだったら、学資のことは何とでもすっから。人の世話にばりなったってわかんねぇから、自分のことは自分でやるように勉強しなきゃだめなんだ」って語られて。そうかなぁと思って、それからは寝るのも寝ねぇで、勉強が始まったのさ。試験が2月かな。その試験受けんたんだけっども、結局一夜漬けちゅうもんで、受かってしまったの。みんなには、「おめぇみていに遊んでいて受かるんだったら、勉強しねぇ方がいいんだな」なんて言われてね。

 

高校時代―米買って食わせられては情けねぇ

 結局ね、不思議なもんだな。高校受かって勉強始まってからも、あまり学校の勉強はしたくない。俺百姓すんだからいいんだって。その気持ちは抜けねかったのよ。

 だから、3年間何をしたかっていうと、農業改良普及所って、今の農業振興センターの前身なんだけっども、そこに入り浸りになったのよ。高校に入った時から、「おめぇさ任せっからやってみろ」ってじんつぁんに言われて、田んぼを責任持って作りはじめたの。だいたい今と同じで、5反くらい。特に苗代の分は責任もってやらせられたもんだから。その頃、自転車で6キロの道のりを学校へ通ったんだけっども、返事をしたらそろそろって抜けてしまって、改良普及所さ行って田んぼの苗代がどうすればいいのっていろいろ聞いて。教えられっと自転車で中の町ってところに田んぼがあったんで、行って田んぼの手入れして。「おめぇ学校なして行かねぇの」なんてね、側の人が。「うん、学校いいんだ!俺は苗代手入れするんだから」って。そして、苗代を手入れしながら、苗代の手入れ終わっと、学校さ行って。はてそれから行くと、今度は勉強が終わる頃だから、部活なのね。部活は大好きでね。暴れるほど好きで。陸上競技部さ入って、徹底して練習したのね。

 その頃は、今のような苗代でなぐ、田んぼを代かいて、田んぼに直に播いたのよ。苗代用の田んぼが別にあって。そして、苗代で苗が育つと、苗採りってことで、そして手で植えたんだけっども。その頃は、苗代の技術っていうのが、今のように進歩してないもんだから、よく作る人、悪く作る人いろいろあって。あの頃は、5月に入って、苗代、種まきしたのね。6月10日から16日頃が田植え。少し遅れると、6月末から7月初めころが田植えの時期だったのさ。それは昭和27年、8年ころまで。そういう仕事のパターンで。

 この面積から、なんとか家で食うだけは取りたいって。当時は11人家族くらいかな。俺は姉と俺だけだけど、じんつぁんが、若くて奥さん亡くなったのね、42歳頃に。そしてまた嫁さんもらったから、子どもがいっぱいいて。宮城県のコメの収量は1反歩辺りどのくらい取れるってデータから計算してみるというと、あれ、家で食っても余るくらい取れねきゃねぇんだってわかって。よし、では家の家族が絶対米不足なく、腹いっぱい食うぐらい、絶対取ってみせると。俺たちその頃は、7月になると米を買ってきて食わせられたのよ、じんつぁんに。田んぼがあっても足りなくて。田んぼがあるのに、米買って食わせられては情けねぇのね。中学辺りから、それは感じてたのよ。だから、俺は百姓をすんだって腹を決めてたっていうのは、そういうことなのよ。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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