東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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百姓として入谷に生きる

百姓するって気持ち、その気持ちだけは抜けねかったのよ

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  • 話し手: 西城新市さん
  • 聞き手: 代田七瀬
  • 聞いた日: 2012年7月4日
  • 100/101
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耕運機を買う―馬っこがじっとしていねぇのよ

 結婚したのは、22歳の時、昭和34年。家内は19歳の時。1月の5日の日に結婚式して、5月の田仕事の時になって馬を連れて行ったら、馬っこが、なんせ若い姉っこにすがられるものだから、じっとしていねぇのよ。仕事しねぇのね。いややや、これは困ったなと思ってね。して、とてもこんではとにかくせっかく結婚して嫁さんもらったのに、苦労させてはわかんねぇと、怪我などされては大変だってことで、その馬は使うのをあきらめて。そして、今から佐沼に耕運機買いさ行くぞとなって。友人ののぶちゃんと一緒に行って、佐沼の機械屋さんに、その日の夕方田んぼまで届けてもらって。次の日、今度はそいつの試運転したら、とても塩梅いいのね。その頃は志津川町っていったんだけんど、志津川町に3台だけ。前の年に2台で、1年後に私が買ったきり。楽してできたのっさ。

 

家計を支えるもの―炭は年に800俵は出してたね

 田んぼの分は、うちで食うだけを。現金収入は、炭焼き、タバコ、養蚕、全部含めて。炭焼きは家族全員でやって、年に800俵くらいは普通に出していたんです。800っていうと、今でも実は生活が成り立つのね。今一俵2,000円くらい。2,000円にして、800俵出すと160万。だいたい、現金で使う分が、このくらいあれば今でも生活が成り立つの。東京ではだめだけっどね。でも、お金持ちではなかった。じんつぁん、何ぼ稼いでも、人に騙されて、お金使わせられてたの。そのために、孫の俺を、とにかく人に騙されないように勉強しねきゃならねぇと、ほして自分の用足しは自分でしねきゃねぇってことを語ったの。よしと、ほんでは自分のことは自分で、人に頼まなくても用を足せるような状態に勉強するぞってことで。だから、俺は逆に人の用を足してきたの。

 出稼ぎもしてんのよ。昭和40年から50年あたりに。農業ががたっと落ちて、なかなか収益上がんなくなってきた時代で。とても家族養っていくのに、農業だけの収入ではわかんねぇってことで。東京行って、道路の工事だけしてたんだけっども。

 

35年の津波―遊んで得た経験が生きてんのよ

 昭和35年の津波は妻をもらった次の年。田んぼの仕事を頼まれて、惣内(そうない)山の所に田んぼを持っていた人が、私に代掻きを頼むってことだったから、耕運機で行こうってことで、弁当を3つ持って朝に早く田仕事に出はったの。そしたら、津波が来たよって、唯一電話のある芳賀商店が、どっからか電話で教えられて、「今からどこさ行くの?志津川は津波が来て流されてしまった」ってこんな話なのよ。ほんで一回は戻ったものの、耕運機に乗ってそのまま行って、津波が来た後を見て、お袋の姉の所の元浜の人たちが、たぶん上の山さ避難してたんだべなと思って、耕運機は置いて、弁当をしょって、今の中学校の所の峰伝いに行ったの。そこさみんな避難してきてやって。ああ、これよかったなと思って、弁当持ってきたからどうぞって。中学校から上の山(かみのやま)の高校にまで行く所は、高校時代に山学校したおかげでわかってたのよ。誰でも通れる所でねぇのよ。

 今回の津波でも、入谷の公民館でおにぎりを集めて届けるのに、志津川の避難所になってる中学校と小学校さ行く道路が歩かれねぇから、どこ持って行けばいいんだってこんな話なのね。それを教えてやって。地震の時は家内と家にいたよ。勉強しないで遊んでたんだけっども、遊んでたやつがね、なんかの時に生きてんのよ。

 

町づくりの提案―津波が来た言い伝えのない地域があんの

 正直、志津川の町の将来像について提案はしてんのよ。文化遺跡、史跡、そういうもののまったくない場所が、1ヵ所だけあんのね。「磯の沢」「平井田」っていう地名の場所なんだけっけど。入谷地域に津波が来たって言い伝えがあるのに、その地域には、津波が来たっていう記録がないのよ。来ていないのよ。ちょうど入谷の盆地のような地形が造れるのね。そこをとにかく、町の拠点にしろよっていうそういう発想で、今回高台移転っていうのはすっけっども、最終的には南三陸町の町にするよって。そういう姿勢を出すっていうと、今避難している人たちも、だったからあの土地俺が使うかな、こっちの土地使うかなと、そういう発想が出てくるのね。これからまた1,000年先、2,000年先さ向けて、必ず津波が来るよと。津波が来た時、海の方に作っておくと、また被害が出ると。だから、海の方に町づくりを考えるというのはちょっと酷でねぇかと。

 「磯の沢」囲いの人たちが、あんな山ん中家建ててやってってことで、津波前にはみんなに笑われてたのね。ところが、今度の津波で、そこの人たちは生きてんだ。そこが、少しずつ家が立ち始まってきて。だから、やっぱりいずれ、そういう場所を選ばねけねぇんでねぇのかと。そして、入谷地域のような地域づくりしたらどうなんだと。

 俺が生まれた時も500戸なのね。今でも500戸なのよ。ってことはね、過疎地だと思いますか。だから、私はここで生まれてここで育って、こうして暮らしてこの歳になったけっども、入谷のような地域づくりしていれば、もうどこさいっても大丈夫、入谷の方がいいって感じになるよって。

 

【プロフィール】

話し手:西城新市さん

宮城県南三陸町入谷に生まれ育つ。田んぼ、炭焼き、養蚕、たばこ等、暮らしていくのに必要なことはなんでも挑戦してきたという。「百姓」として、現在も農業に携わりながら、入谷の地域づくりにも貢献されている。

聞き手:代田七瀬

慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス研究所上席所員(訪問)

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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