東京財団×共存の森ネットワーク 被災地の聞き書き101

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これからも出たとこ勝負だねえ

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  • 話し手: 千葉幸子さん
  • 聞き手: 佐伯哲也
  • 聞いた日: 2012年7月4日
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何にもないね

 千葉幸子(ちばさちこ)です。今年7月8日で71歳になります。自分一人、天涯孤独。きょうだいもないし、親もない、親戚はいるけどね、丸っきりの一人だから。

 ご先祖は薬問屋で、志津川大火までは旅館を、昭和24年からは蕎麦屋をやってたんだけど、父親が亡くなった時やめた。私は地元で就職しましたから。今は何にもないね。町におうちが建ってないでしょ。道路だって信号だけで真っ暗だもの。まあ、想像を絶するというのは、このことかな。

 高潮注意報なんてあまり聞いたことなかったのに、この津波になってから毎日ぐらい高潮注意報だのって。この間も雨降った時は、国道45号線は病院のところ、通行止めだわ。そこまでも水来てんだ。

 

津波を2回経験

 チリ津波は志津川高校を卒業したばっかりのとき。私らの住んでいたのは十日町っていうんですけど、その近辺の人達は、上の山(かみのやま)っていう志津川高校があったところが、避難する高台。役場は1階が浸水してしまったから、志津川高校を本部にして使ったんです。その後、毎年5月24日には津波訓練をしてました。

 チリ津波の時は、チリから一昼夜かけて来て、引き波が荒島までは引いたらしいの。卒業してすぐ役場勤務になった私の同級生が「すごかったよ、あんた。外見たらね、荒島まで海の底見えたんだよ」って言って。「あら、おれも見たかった」って。そのぐらい引いたのね。

 朝の5時ちょっと前に、入谷っていうところの消防団が来て、「こら、何寝てんだ。津波来っぞ!」って。私も起きてみたら、うちの前の側溝ね、10センチぐらいは濡れてたね。もう1波は来たんだね。そしたら、本浜っていう海岸近くの部落のおじいさんが、うちの前まで来て「荒島まで水がないから大きなの来るぞ。逃げろ逃げろ!」と叫んで回っていたんです。昭和8年の津波を経験した人なのかもね。うちの母親は志津川にいなかったから経験しなかったんだって。だから隣のお医者さんの婦長さんにね、「どうもこうも、どこまで来るんだか分かんねものね。どうすっぺね。床上まで来ねえべかな」なんて電話してた。その間、私は廊下のところに下駄とか靴とか乗せて。そしたら、消防団の仕事をしてた父親が異様な声で「逃げろ」って言ってきたんだ。

 外さ出たらね、壁みたいに立って来たの。養殖施設の樽とか、筏とか、家の瓦礫とか。水でねえんだもん。2メートル以上はあったな。そしたら警察のジープが来て「停めて乗せられねがら前走りなさい」って言われたの。母親と2人で走ったわけ。いつも通ってた高校の脇道を上がって。水には濡れずにすんだ。

 うちの向かいのおじいさんもだけどね、畳に寝てたら、波が来て、畳のまま上がったの。今回みたいにワッと来ないから。海から少しずつ、ただワーワーワーワーと来て。そしたら畳のまんま上がって、下がって。それで助かった人達、後から調査してみたら何人かいたんだよ。あと、泳いでて首まで出してそこにいんだけど、助けに行かれなかったっていう。瓦礫があってね。自分も泳いでるんだけど、手を差し伸べられなかったっていう人もいる。

 今回も、私は全然水見ないから。私達、ちょうど役場の車が来たもんで、それに乗って指定の避難所、チリ津波のときと同じく上の山まで逃げた。今回はそこまで水が来たの。保育所の体育館みたいなとこに入った時ね、窓ガラスが白くなったのね。土煙だと思うんだけど。

 そして、保育所のずっと裏、けもの道みたいなところ通って小学校の体育館に行ったの。鬱蒼としてね、気持ち悪い山だったんだけど。水見ないから、大惨事とか頭にねえから、あははって笑ったりね。野を越え山越え行きましょうなんて言ってね。

 

避難所での暮らし

 小学校には4月末まで、その後は中学校にいたね。小学校も卒業式だのあるから、明け渡さなきゃないから。志津川以外の避難所に行かないかっていろいろ言われたけど、中学校に行くかっていうことで。7、8人かな、そのグループで。一応ね、志津川中学校避難所、代表の会長というのは、民間からなってもらった。そんで日中に一人、役場から派遣が来るわけ。あとは保母さんとかなんかね。足りないから、ボランティアさん来たらお願いしますって、それでずっときたんです。

 瓦礫片付けのアルバイトは随分あったんですよ。明日早くて、おにぎり欲しい人は書いてってくださいって、配膳のとこにメモがあってね。そうしておにぎりもらって、早く出る人もいるし。

 公立志津川病院の入院設備がなくなったから、佐沼の病院を一部借りて使ってたんだけど、その病院の先生も避難所にいた。ここの人でなくて派遣されて来てんだけれども、仙台辺りから通えないから。金曜日の夜から日曜日とか月曜日の朝とか、おうちさ帰るんでない。そうするとほら、金曜日は夕飯いりませんとかって言ってっから。日曜日の朝とか月曜日の朝からお願いしますとか何とかって書いて。週末は仙台にお帰りなのね、つって笑ったけど。

 ほんとにほんとに、いろいろありましたね。私は、不謹慎だけど楽しかったね。みんなはね、どうだか心配。私はなんも。一人だからね、出たとこ勝負だからいいっつったの。「流れを変えようと思うな。変わる流れにうまく乗れ」って母が書いたメモが残ってるんだけど、私も座右の銘にしようかなって思ってね。

 



■ 宮城県南三陸町志津川

宮城県南三陸町
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